話すということ

序文

自分は話すのが苦手だ。無理。初対面で人並みには社交辞令的な会話ができるが、盛り上がることはほぼない。会話も続かない。

なぜだろうと思った。そもそも「なぜだろうと考えること自体馬鹿馬鹿しい」と思うかもしれない。でも、大まじめに考えたい。ただ自分が考えたことをつらつらと書くだけ。

黙っているのが一番楽

一番はこれだろう。結局黙っているのが一番楽なのだ。自分が話す内容を考えるという手間がない。相手が話して来たらそれにのっかって喋ればいいのだから楽。

自分が傷つきたくない

喋るという行為は自己開示である。いうなれば喋ることによって、「自分はこういう人間で、こういう考え方をしていま~す!!」と声高らかに主張することである。問題はその先にあるプロセスである。その主張を受け入れられるのが怖いのである。自分がその恐怖を実際に感じてはいないかもしれないが、深層心理的にその考えが巣くっていると思っている。「この話題を振って面白いと思ってくれるのか」「自分を受け入れてくれるのか」と。それで相手に拒絶されてしまうのが怖いのである。自分が傷つきたくないのではないか。

自分が喋りたいことがうまく言葉にできない、伝えることができない。

なんでも喋りたくないだけではない。喋りたい内容はある。でも、それをうまく言葉に落とし込めないのである。文章はいくらでも時間をかけて言葉を紡ぐことができるけど、会話はそうはいかない。リアルタイムな応答が必須な状況である。そんな中で相手にしっかりと伝わるような表現をしなければいけない。これは大変高度な技であると思う。話の構成、話の内容を聞いてて面白く、伝わるものはすぐには出てこない。その言葉が出てくる前に話題が変わったり、会話の主導権が相手に行ってしまう。

でも、人と話すことはあきらめたくない。

話すことは、思考の整理と新たな発見の場でもある。自己開示の場面でもある。人と話すと大きな発見がいろいろある。考え方がまったく違っていたり、他人の「発言」というフィルターを通して自分が(厳密には客観的ではなく、主観以外というべきではあるが)客観的にどう見られているかが分かる。そして、すべてに人に通用する会話の仕方などないのも知っている。そんな有意義な場から逃げてはいけないと、自分に言い聞かせる。でも、億劫。結論は結局、話そうとすることが大事と思考の堂々巡りをしただけであるが。

駄文で申し訳ない。

追記 2022/05/13

気づいた。自分が話そうという意識をしていない。当たり前のことだけど、なぜこれに気付いていないのだ。何か心が動かされた時、何々を人に話そうと自分の中で会話の構想を練っていないのが間違いなのだ。伝えようとする事柄を見つけようとする。これこそが話せる秘訣なのではないか。話せる人は無意識にやっている。すごい。