「してもいい?」と「したい。」~増田の記事を読んで~

初めに

例えば、友人の手伝いでもなんでもいい。とりあえず、他人に自分が行動を働きかけるとき、なんて言えばいいのだろうか?多くの時間を過ごす相手ならば、言い方ひとつの積み重ねが関係性を破綻させかねない。○○さんが離婚した(例としては重いけど。)、家族と喧嘩したなど、その理由が心当たりがない人もいるのではないか?言い方ひとつで、それらが予防できるかもしれない。

許可

タイトルの、「してもよい?」はよろしくない尋ね方だと思う。結論から言うと、それは無責任な尋ね方であるからだ。

なぜ無責任な尋ね方であるか、以下を読んでいただければわかるだろう。

まあ、ありきたりであるが、例として次のシチュエーションを考えよう。あんまり細かい設定はいらないので、会話だけ考える。

夫:「今日、会社の飲み会があるんだけど、上司が来いってうるさいんだ。。帰りが0時くらいになっちゃうけど、飲み会行ってきていい?」 妻:「そうなの、それならしょうがないわね。終電までには帰ってきてよ、明日早いの、私は11時には寝ちゃうから、風呂は自分で追い炊きしてね。」

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はい。アウト~?

一見、飲み会に行くことを下手にお願いしているように見えるが、実際はそんなことはない。妻の方に精神的負担を負わせている、厄介なお願いなのだ。

「行ってきていい?」。この尋ね方は、「行く」という選択肢を自分で選んでいないのだ。妻に行く許可をもらっているに過ぎない。行くか、行かないかの選択を妻に押し付けている。言われすぎて、耳にタコができているが、人間は選択できる数は決まっているともいわれている。一回ならまだしも、何かあるたびにこの聞き方で、幾度となく選択させられる身になってみるといい。

正直、うざい。

「今から、買い物行ってきていい?」

「このギター買ってもいい?」

自分の父と母の会話を思い出すと、そう感じる。もう、勝手にやればいいじゃんって。母がいっつも言ってた。

「同窓会に行ってきてもいい?」って父が言って、「勝手にすれば」という母。

積もり積もった結果だろう。結局、許可が得られなければいけないと考えるようになって、その言い方しかできなくなるのであろう。その部分だけ切り取れば問題ないように見えるが、積み重ねられた言葉は重すぎた。

厄介なのは、言っている側は、丁寧にお願いしていると思い込んでいる点である。相当耐性のある方が相手なら、何もトラブルなく過ごせると思うが、思ったより人の忍耐力はない。親しくない間柄ならなおさら。

この言い方はずるいのだ。もし、先の例で、飲み会に行ってほしくないと妻が思ったとしよう。「~してもいい?」の言い方によってその選択権は言った夫でなく、妻に移されている。かつ、夫は飲み会に行きたがっている。それを棄却する妻の立場はどうだろう。少なからず罪悪感を持つはずである。「私の都合で、夫の要望を否定してよいのだろうか」と。2それはそうなのだ。この言い方によって、選択権が譲渡され、その選択に伴う責任を負うのは選択した人なのだから。そして、断られた時の自分へのダメージは少ない。「~してもいい?」はずるいのだ。

反論と自分の言いたいこと。

「いや、そうは言っても、人と会話するときに許可取りぐらいしなければいけないときもある。」という人もいるだろう。自分が喫煙者で、タバコを吸いたいときとかは、この言い方にならざるを得ないだろう。3もちろん、そうしなければいけないときもある。「許可取りの言い方をするな」と言いたいわけではない。自分が言いたいことは、「言い方次第で、相手の受け取り方と、心持ちが変わる」ということであり、「選択権を譲渡するような言い方」をあまりするべきでないということである。当たり前ではあるけど。でも、ほんとに何気ない言葉で変わってしまうのだ。

言い方

例の会話に戻ろう。では、この場合なんて言えばよいのだろうか。それは上下関係にならない言い方4であればよいのではないか。「今日、飲み会に行きたい。」と。この一言だけだと淡泊なので、もう一言二言、付け足してあげよう。「今日、飲み会に行きたいのだけど、遅くなるから晩御飯はいらないよ」とか。もちろん、自分の要望を直接伝えているだけなので、相手にもよるが要望を通すために提案を入れる必要性がある場合もある。

この返答に、「選択権移行による負担」”は”5伴わない。その要望の責任は言った自分にあり、変にその会話が上下関係にならない。

本来ならば、自分の意志表示のためなのに、相手に無駄な精神的負担を強いらせる言い方であるといえる。

もう一つの例

もう一つダメな言い方があると思う。それは、「~する?」の言い方。「~しようか?」も同様である。とどのつまり、相手がしてほしいことがないか聞いているのである。これも、選択権が移されている。

夫:ゴミ出ししようか? 妻:うん。お願い。

これ、やることはいいことなんだけど、その行動を決めるのは相手であり、その相手がお願いしていて、言った側の夫はお願いされているのである

直接思っていなくても、その言い方をしたら「お願いされて気持ちいい」と深層心理的に思っているはずだ。

これが続くとうざい。相手は「なんで、私がお前にお願いしなきゃいけないんだ」と思い始める。それは、もう親を見てるとそう思った。ストレスがたまる妻の姿は想像に難くない。

最後に

自分も選択権を移動させるようなことしか言ってない。自分のその発言自体に自信がないのだ。会議でも。部会でも。もっと心に留めておくために、この記事を書きました。この記事はある記事(?)を大いに参考にして、自分なりにまとめ、自分の考えを書き加えたものである。その記事を見たときに「うっわ。確かにそうだ!!」と感激した。結構、元記事に引っ張られているところがあるので、剽窃だといわれる可能性もある。なのでオリジナリティーがないと言われてもしょうがない。問題があるならこの記事は消します。

下の記事が、自分が感激を受けた記事。

anond.hatelabo.jp


  1. 会話を引用の書き方にしているが、別に引用ではない。見やすいようにしているだけだ。
  2. まあ、まったく思わない人はいるかもしれないが。
  3. 自分は喫煙者ではないし、道端でタバコ吸うなよと思っている。
  4. もちろん、そのような関係性を望むのであればという条件付きであるが。
  5. "は"が重要。相手が嫌がる要望だってあるじゃないか。選択権が譲渡されることによって生じる、選択しなければいけないという精神的負担がなくなると言いたいのだ。