ユーモアと闇の競争。舞台「ウィングレス翼を持たぬ天使」を見て。

天使が人間に恋をした 天使の仕事はただ見守ること けれど天使は恋した人間を 救いたいと思った だから天使は翼を捨てた その日から翼を持たぬ天使の 冒険は始まった ビラから引用。

ひょんなことから、舞台を見に行った。ウィングレス翼を持たぬ天使という題の舞台だ。 いきなり雑な感想にはなるが、とても面白いものであった。自分は舞台を見るのは久しぶりだが、「ミュージカル」的なものは大好物だということを再認識したような気がする。

あらすじとしては、(ビラから引用して)

人間の女性に惚れて天使をやめた元天使は、失恋し、もう一度天使に戻りたいと神様に頼み込む。が、神様は「一人の人間を本当に救ったら。天使に戻す」という条件を出した。かくして元天使は「天使本舗」という会社を作り、人間たちの救済に乗り出す。が、人々の悩みを解決しても、「本当に救う」ことにはならないと神様はいう。そんな時、元天使は夜の公園で小学三年生の麻衣と出会う。彼女の母親は、スピリチュアル的陰謀論の「宇宙の声」にはまっていた。かくして、麻衣を救うために、元天使は「宇宙の声」代表の神山秀雄と戦い始めた。

というもの。

陰謀論にはまる人々をユーモアあふれる表現で描写し、それでいて陰謀論にはまる人間の弱さを描き切っていると感じた。また、子ども食堂という題材も扱い、扱う内容としては暗い部類に入ってくる。しかし、その暗さを凌駕してコメディチックに演じられていて、演じる人の言語の応酬ともいうべき、その掛け合いのリズミカルな「間」が最高に心地よい。結果として舞台の読了感ともいうべき余韻が楽しいものになっているのが凄いと思った。

また、現代のマスメディア批判ともいうべき描写が入っているのも面白い。元天使が恋した女性の元彼は雑誌の記者であるが、自分が書きたい記事(子ども食堂に関するもの)を書くために上(編集者)からの命令で話題に上がる記事をかかねばならないというのも、なかなかに。自分が伝えたいことを書くためには自分が伝えたくないものも伝えなくてはならない、あるいは自分がくいっぱぐれないようにそうしなければならないというのが最高に矛盾している。他人を救うには自分自身が豊かでないとダメなのだ。

話を戻して、再び天使になるために主人公は駆け回っている。「天使本舗」ではいわゆる何でも屋さんだ。いろんなところを駆けずり回りながらも、人々に感謝されはする。ゴキブリ退治に、引っ越し手伝い、彼女の作り方の指南まで、本当になんでもやっていた。ここの演出は結構コミカルに描かれていて、おもしろかった。しかし、自分がとりわけ注目したいのはその演出方法ではない(もちろん演出方法も最高だった)。ここで焦点に充てていくのは「救う」とはどういうことかである。これだけ人のためにいろいろやり感謝されども、神様は人間を救ったとして天使に戻さなかったのである。自分の記憶では、神様が「人間を救う」の定義をどのように定義していたか語られてなかったような気がする。(もしかしたら語られていたかもしれないが、頭からすっかりと抜けている。記憶力の無さが...)

ここで、個人的な一つの仮説を立ててみる「人を救うとは、その人を自由にすることである」と。主人公の元天使が天使本舗でしていたことは、人に何かを「与える(もしくは提供する)」ことだったような気がする。自由にするということは人をしがらみから真の意味で「解放」することであり、これが「救う」ことだったのだろうと考える。ここで、考えるべきことは自由とは何かということだが、その議論はおいておく(ほんとはダメな気がするけど)。重大なネタバレを挟んでしまうことになるので、詳細は書かないが、元天使は麻衣のお母さん(あるいは、彼女ともう一人)をある一種のしがらみから解放してあげたことが人を救うことであったのだ。ユクスキュルがいうような一種の環世界の移行を成し遂げたのだ。

妄想はこれくらいにしておこう()。

パンフレットの中野信子さんとこの舞台の作家兼演出家の鴻上尚史さんの対談で個人的に興味深い一節がある。

言語って、そのとき自分が考えたことのひとつしか相手に伝えられませんよね。でも、頭の中では5個も10個も別の考え方が浮かんでいることもある。そんなふうに複数あるペルソナを同時に伝えたくても、言語はシルアルにしか意味を伝えられないから、言葉ひとつずつを発信するしかない。でも、発信している間にペルソナたちの考え方も変化していくから、パラレルにそれらを伝える手段を私たちは持っていない。これが、言語の限界です。

この一節を見た瞬間、このパンフレット(1500円)を買った意義があったと実感した。そう、確かにそうなのだ。脱線にはなるが、ここで少しおもしろいのはその考えをペルソナとして一種の擬人化をしているところである。考え方を複数の人格ととらえているように見受けられて面白い。戻して、人間は言語を用いてコミュニケーションをとるとき、シリアルにしか伝えられないのである。まるで紡いだ糸をほぐして相手に渡してあげ、相手に対してもう一度紡げとするのである。これはしょうがない。その紡ぐ作業とほぐす作業は中野さんに言わせれば「言語の限界」なんだろう。もちろん情報量だったり、その場で思いついた複数のペルソナをその場で変容させることなく伝えられないという点で限界があるのだろう。しかし、別の視点で、自分はその限界こそが自身の思考を活性化してくれると思うのだ。そのほどく作業と紡ぐ作業を話し手と聞き手が入れ替わる中で高速に行われることによってさらなる深みに到達できる気がしてならないのだ。そんなことを思った。

くまのプーさんから引用しているとしていたが、この舞台でのいいなぁと思ったセリフに、「さよならを言うのがこんなにつらい相手がいるなんて、なんて僕は幸せなのだろう」というのがあった(ちょっとうろ覚え)。ああ、なるほど、と。そんな大事な相手が居るのは幸せの一つなのかもしれない。

最後にこの最高の舞台につれていってくれた友人に、舞台俳優さん、そして鴻上さんに感謝を。

おわり。


直接関係ないが、考えてしまったことを書く。

なんで、天使に人間味をもたせてしまったのだろう。

という問いである。この舞台での天使の任務はある特定のモノを見守るというものである。見守り、その報告を神様にするだけである。神様から、見守り対象に干渉してはならないとしていながらも、人間味あるいは感情を天使に持たせたのだろうか。ただ、報告を行うだけであれば無機質な監視ドローンのような自我を持たない天使を作ればよいだけである。こういった考察はどっかしらで行われていそうな気はするが、ダラダラと書いていく。なぜ、神様は人間味のある天使を使っているのかは「主観的な見方のほうが面白いから」だと思う。神様も退屈しているのだw 多分。その圧倒的に主観的な見方をしてくれた報告書を一次情報にて、神がなすべきことをするというほうが神様側からしたら面白いと思いませんか?

誰だって事務的な仕事は退屈でしょ。


あと、人を引き付けるようなブログタイトルにしたいなぁとは思ってる。難しい。


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