自分のためにブログを書いてる -特別お題「わたしがブログを書く理由」-

特別お題「わたしがブログを書く理由

ブログを書こうとしてはてなブログのアカウントを作った動機は何だっただろうか.大学一年生...いや,大学二年生だったか.その時にアカウントを作ってほんの少しだけのブログを書き始めた.パッとブログを始めた動機が分からなかったので,自分のブログのページに行って過去の記事を遡って見てみる.まだ100記事には満たないが,自分の記事の一覧をパソコンで下にスクロールしていくたびに何か感慨深いものがある.二年前に書き始めてから,よくぞここまで飽き性の私が飽きずにブログを書くことを続けさせることができたな,と我ながら思う.

スクロールして数十秒で底に着き,一番最初の記事がそのページの"そこ"にあった.一番最初の記事にブログを書く目的が書いてあった.過去の自分曰く,「将来見返して、ああ、こんなことやってたなと思い出に浸れるようなものにしたいなと思ってます。そして、文章を書く練習。」.ああ,そうだった.パッと思いつかないふわふわしていたものが晴れた.ブログを書く理由は一貫してこの目的が己の根底にある.

そして,ブログを書くことを通じてアウトップットの場としても利用しているという事実を実感している.自分の気持ちやある事柄を言葉に還元し,書き伝えるという行為は何気に難しいのだ.外山滋比古の思考の整理学には,「書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことができない。『AとBとは同時に存在する』、と考えたとしても、AとBとを完全に同時に表現することは不可能で、かならず、どちらかを先に、他をあとにしないではいられない。裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。」*1とある.立体的なものを一次元的なものに射影し,読み手が復元できるようにするといった解釈でいいだろう.人間が生活を営む上で,何かを伝えるといったスキルは必要不可欠であり,いろんな分野でAIが活躍してるが,この「自分の内面のものを伝える能力」だけは置き換え不可能だろう.こんなことをブログを書いてるうちに自然に考えるようになり,この伝える練習というのも理由になっていったのだと思い出した.

また,普通,人間は物事を忘れる.少なくとも自分は物事をすぐに忘れるし,なんなら親に向かって「自分の長所はすぐに忘れることができることです」とか宣っているのだ.そんなことを言うと親はハイハイといった感じで受け流し,そして笑いながら「じゃあ,頭に入ったことは右から左へ抜けてくのか」と言ってくれる(なんて良い親なんだ).そんな話は置いておいて,忘れることは悪いことかと言われるとそうでもない.忘れることにもメリットはあると少なからず思っている.人間は物事をすぐに忘れるとは言ったが,完全に忘れることは少ない.なんだっけと考えて”思い出す”という瞬間も楽しいのだ.卒アルだったり,昔の友人との写真だったり,これらを見て友人と語らうと,これまた楽しいのだ.いろんなことを思い出し,懐かしむ.これを「過去の自分の記事」と「未来の読んでいる私」でするのだ.

こんなことをやってたな,この時こんな気持ちだったな,これについてこう考えていたな,こんな本を読んでいたな,この本を読んでこう思っていたのだなと過去の自分の記事を通して懐かしむことができる,いわば私のブログは未来の自分に向けた一種の手紙のようなものなのだ.そして,記事に書いた事柄を堂々たる面持ちで忘れることができるのだ.

*1:外山滋比古 (1986).思考の整理学.筑摩書房ちくま文庫, p.136