森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 8日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


7.「ないものねだりの夢を妄想という。」p28

ここにきて森博嗣のすごさを実感する.「僕自身は、夢も希望も同じ意味で使っているから、自分の夢というのは、ほとんど実現する。実現させるように行動をする。ただ夢を見ているだけではない。夢を見るならば、計画や準備や努力、そして研究、つまり考察と計算が必要である。」本文より.夢を実現するように行動をするという言葉はとてもかっこいい.日本人ならば,こんな風になりたい,こんな職業に就きたいと「夢」を語る場面はあっただろう.しかし,その夢を実現するように行動している人は何パーセントだろうか.少なくとも自分はそこまで考えて行動していない.夢を実現するように行動して,夢を言葉通りの夢にさせない心意気を自分に入れなおしたいと思った.夢は思うだけでは叶うわけないし,言葉にしたとしても叶わない,少し行動するだけでも叶わない.すなわち,凡人である我々は少しずつ毎日努力しないといけない.それはわかっているけど,習慣づけというのはなかなか難しいものだ.

成功に努力は必要十分条件ではないけれど,必要条件ではあるのだ.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 7日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


6. 「ある人は追っていると思い、ある人は逃げていると思う。」

人の数だけ見方があり,その人が見る世界も違うだろう.自分が音ゲーばっかりしているのを親が見たら,ゲームばっかやってないで...と思うだろうし,上手くなるためにたくさんプレイしててすごい(私の願望)とか思うわけだ.本文中にある通り,人間は一つの事実から「なにか理由があるはずだ」とか,「自分がこうこうだから,この人もこうに違いない」とか考え始める.特に,人は複雑なのだから一元的な理由の下で行動しているというわけではないというのは同意するところだ.

人間は複合的な理由に基づいて決断をくだしているのは間違いない.その本を手に取って買ったという行動さえ,「前に見たことあったから」「ジャケットが好みだから」「自由に使えるお金を持っていたから」「誰誰がお勧めしていたから」といろんな要因が絡んでるだろう.でも,今あげた理由も後付けだ.行動は結果であって理由は教えてくれない.特に,言葉にされた理由などいくらでも捏造できるのは自分自身がよく知っている.人間は自分を正当化するために理由付けするからだ.ある意味,理由の捏造も幸せな人生に必要なスキルかもしれないが.

人間に一貫性なんかないよな.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 6日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


5.「若いときには前向きだし、歳を取ると後ろ向きになりがちだ。」p24

アルバイト柄ではあるが,ある程度年齢層が自分の親,もしくはそれ以上の人たちと一緒に働いている.働いている中で,年齢の差というものはそこまで感じはしない.ただ,雑談するとなるとジェネレーションギャップを感じることは多々ある.でも,話しにくいと感じたり話題に入りずらいと思ったことはあまりない.本文中で森博嗣が指摘しているのは,年齢差で視点が異なるため年齢が離れている者同士は友人になりにくいということだ.将来のことを考えて前を向くか,過去を振り返るかという視点の違いだ.この視点を意識してバイト先での会話を思い返すと,会話の内容は未来を見ている人が多いような気がした.もちろん昔話も話題に上がるが,それは話の中での脱線であり,基本的には未来や直近起こったことを話題に挙げて話してくれる.次の旅行はどこどこに行くだとか,こんな本を読んだとか,最近のアニメはだとか.自分としても,知らないことを知れるのでありがたいことだと思っている.

"視点"に着目すると,身近なことでも新しいことが見えてくるのだな...話をするときは意識して未来や直近の話題を挙げてみよう.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 5日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


4. 「人間が一日でできることなんて、本当に僅かなものだ。」p22

人間はいつか死んでなくなる.毎日は僅かでもその少しのものを積み上げていけるが,その積み上げも無限ではない.本文を見て真っ先に思い浮かんだものはこれだ.

www.thismuchlonger.com

生まれた日にちを入力し,何歳まで生きるかを入力すると自分の残り時間が可視化される.自分の誕生日と80歳を入力すると,本当に人生って時間は少ないなと一種の絶望を感じる.これを見て,自堕落な生活を送るのはよくないな...とか思い始める.

しかし,そんな現実を突きつけられたとしても,本文中のことばが励ましてくれた.

「とにかく、なんでも良いから、好きなことを選んで、少しずつ進めてみよう。厭きてきても、ほんの少しでも良いから簡単なことを選んで進める。そうすることで、いつか素晴らしいものを体験できるはずだ。これは、本当に例外なく得られるものだと僕は思っている。」

今日も頑張ろう.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 4日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


3.「人生における最も安全な道とは、真面目に勉強し、勤勉に働くこと?」p20

これは私の人生設計(人生の設計なんておこがましいが...)においての,ひいては現代の若者においての,重要な問いの一つのような気がする.本文中にもあったが,今は現状がそこそこ満足できる環境にある.ここ数十年で娯楽というものがぐんと身近になっていると大学生の自分でも感じている.無料でプレイでき,非常にクオリティの高いゲームの数々,サブスクリプションで幾らでも世界中の作品を視聴でき,SNSの発展により誰でも情報発信が可能であり,家の中でコンテンツを作りマネタイズできるようになっていることは幸せ以外の何物でもない.そして,就活市場は会社がぜひ来てくださいと言わんばかりの売り手市場.この森博嗣の本のタイトル通り,人生における最も安全な道は真面目に勉強して勤勉に働くことであるのは現代日本において間違いない.自分はそんなに優秀な部類ではないが,一般的に見ても「真面目に勉強し,勤勉に働く」というレールに載っていると思う.自分でも最近,「自分の人生おもんない」とか思い始めている.こんな態度は,社会に対する驕りで大学というモラトリアムに毒されてるといわれても仕方ないかもしれないが,私は少しでも楽しい,面白い人生にしたい.この先の人生いろいろと挑戦してみようと再考する機会となった.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 3日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


2. 「常識を疑わない人は、つまり素直でないからできるのである。」p18

「道理や人情や自分の気持ちに素直になれば、必然的に常識というものに懐疑的になるだろう、と僕は考えている。だから、常識を鵜吞みにして疑わないというのは、素直でない証拠だ。」

この本文を読み,なるほどと唸った.常識というレールに乗っかるのは楽だが,ある意味では自分に素直でない状態でもあるのだろう.森博嗣は本文中で常識というレールに乗っている人を非難してはいないし,自分も常識という存在が悪いわけではないと思うし,あってしかるべきだとは思う.ここで森博嗣が言いたいことの一つは常識とどのように相対していくかの構えはバランスをとるべきということのような気もする.常識的な考えは大事だが,それだけではよいものは生まれない.自分に気持ちに蓋をして常識に沿おうと頑張るのもむなしい.

あくまで自分の気持ちと常識のバランスをとってあげて,心地よく生活しよう.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 2日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


1. 臍曲がりに見えるかもしれないが,常に素直に王道を選択している.p16

特段自分が一般人の感性からかけ離れているとは思えない.一般にいいとされているものはいいと思っているし,変に批判精神があるわけではない(と思ってる).しかし,誰しも”逆張り”を持っているとは思っている.敢えて逆張りするのではなく自分自身で考えた結果,周りとは別の考え,いわゆる"逆張り"状態になることはあると思う.その考えに至って周りがそう言っているから...と自分の意見を矯正して流されるのはあまりよろしくない.流されるのは楽だが,責任の所在がないからだと思う.周りに流されて自分が不利益を被ったとなると,誰も責任は取らないし取れない.さらには自分自身さえ責任は取らない.自分が納得した考えで貫き通して間違えたとしても自分に責任が乗っかるため,その後の自分の成長につながるような気がする.

だから,あえて逆張りする必要はないけれど,逆張り状態になってしまうのは悪いことではないと思う.

森博嗣の本をだしにさせていただいて色々書きなぐるだけ 1日目

森博嗣の本である,「常識にとらわれない100の講義」をだし本にして考えたことや思ったことを書く練習.


まえがきを読み,森博嗣がこの本を書いた手法が面白いと思った.その手法とは毎日思いついたことを一つか二つ,一行か二行程度を書き留めて,それをもとに本文を書くだけというものである.本文を書くという肉付け作業はすぐに終わったそうだ.「きっかけ」が大事なことの一例だろうと思った.この手法の大事な部分の肝は"まず毎日書いている"ことだと思う.この毎日書くという行動がきっかけとなってそれが加速度を与えることになり,本文はあっさりとかけているのだろう.森博嗣は大学の助教授から小説家になった特異な人だが,畑違いのことで成功するには,とりあえず何かやってみるというのは大事なかもしれない.

森博嗣はミステリー小説家とは認識しているが,私は森博嗣の小説は読んだことがない.なのにこの本を手に取って読んでみようと思った魂胆,動機が見透かされたような前書きであった.小説は全部嘘だが,この本は森博嗣という一人の実在する人間(しかも,自分よりも賢い人間)が日々考えたことや思ったことを赤裸々に語ってくれるところにひかれたのは間違いない.この本で自分の中で良いと思ったものを吸収していこう.

【今週のお題】サツマイモはめちゃくちゃおいしい

今週のお題「芋」

芋は好きだ.ジャガイモ,里芋,海老芋,長芋,全部おいしい. ただ,私の脳内お芋会議では不動の一位に君臨している芋がいる.

サツマイモ

こいつだ.

こいつのポテンシャルは凄まじい.まず,単体で食べてもおいしいというチート能力がある.蒸かすだけ,焼くだけで激うまおやつになる.激うまのくせに,食物繊維たっぷりでお通じにも良い.味付けしなくてもおいしいというのに,味付けをしたら,もう,優勝である.他の追随を許すことのないポテンシャルの塊であるサツマイモさんには人民が近所のスーパーに赴き,敬礼すべきである.自ら身を削って焼いた状態でスタンバイしていただいているのだ.敬意を表さずにはいられない.

ただ,高い.

自分のためにブログを書いてる -特別お題「わたしがブログを書く理由」-

特別お題「わたしがブログを書く理由

ブログを書こうとしてはてなブログのアカウントを作った動機は何だっただろうか.大学一年生...いや,大学二年生だったか.その時にアカウントを作ってほんの少しだけのブログを書き始めた.パッとブログを始めた動機が分からなかったので,自分のブログのページに行って過去の記事を遡って見てみる.まだ100記事には満たないが,自分の記事の一覧をパソコンで下にスクロールしていくたびに何か感慨深いものがある.二年前に書き始めてから,よくぞここまで飽き性の私が飽きずにブログを書くことを続けさせることができたな,と我ながら思う.

スクロールして数十秒で底に着き,一番最初の記事がそのページの"そこ"にあった.一番最初の記事にブログを書く目的が書いてあった.過去の自分曰く,「将来見返して、ああ、こんなことやってたなと思い出に浸れるようなものにしたいなと思ってます。そして、文章を書く練習。」.ああ,そうだった.パッと思いつかないふわふわしていたものが晴れた.ブログを書く理由は一貫してこの目的が己の根底にある.

そして,ブログを書くことを通じてアウトップットの場としても利用しているという事実を実感している.自分の気持ちやある事柄を言葉に還元し,書き伝えるという行為は何気に難しいのだ.外山滋比古の思考の整理学には,「書くのは線状である。一時にはひとつの線しか引くことができない。『AとBとは同時に存在する』、と考えたとしても、AとBとを完全に同時に表現することは不可能で、かならず、どちらかを先に、他をあとにしないではいられない。裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。」*1とある.立体的なものを一次元的なものに射影し,読み手が復元できるようにするといった解釈でいいだろう.人間が生活を営む上で,何かを伝えるといったスキルは必要不可欠であり,いろんな分野でAIが活躍してるが,この「自分の内面のものを伝える能力」だけは置き換え不可能だろう.こんなことをブログを書いてるうちに自然に考えるようになり,この伝える練習というのも理由になっていったのだと思い出した.

また,普通,人間は物事を忘れる.少なくとも自分は物事をすぐに忘れるし,なんなら親に向かって「自分の長所はすぐに忘れることができることです」とか宣っているのだ.そんなことを言うと親はハイハイといった感じで受け流し,そして笑いながら「じゃあ,頭に入ったことは右から左へ抜けてくのか」と言ってくれる(なんて良い親なんだ).そんな話は置いておいて,忘れることは悪いことかと言われるとそうでもない.忘れることにもメリットはあると少なからず思っている.人間は物事をすぐに忘れるとは言ったが,完全に忘れることは少ない.なんだっけと考えて”思い出す”という瞬間も楽しいのだ.卒アルだったり,昔の友人との写真だったり,これらを見て友人と語らうと,これまた楽しいのだ.いろんなことを思い出し,懐かしむ.これを「過去の自分の記事」と「未来の読んでいる私」でするのだ.

こんなことをやってたな,この時こんな気持ちだったな,これについてこう考えていたな,こんな本を読んでいたな,この本を読んでこう思っていたのだなと過去の自分の記事を通して懐かしむことができる,いわば私のブログは未来の自分に向けた一種の手紙のようなものなのだ.そして,記事に書いた事柄を堂々たる面持ちで忘れることができるのだ.

*1:外山滋比古 (1986).思考の整理学.筑摩書房ちくま文庫, p.136